役行者を巡る【岩手】

   Ⅰ 岩崎鬼剣舞(北上市立鬼の館)
   Ⅱ 岩崎二前神社
   Ⅲ 遠野神楽
   Ⅳ 金円山常福寺
   Ⅴ 遠野市立博物館
   Ⅵ 大迫あんどん祭り
Ⅰ 岩崎鬼剣舞
北上市立鬼の館…岩手県北上市和賀町岩崎16-131
「展示解説シート・よみがえる北の鬼・鬼剣舞」
鬼剣舞は、北上地方に伝承されている民俗芸能です。広くは念仏を唱えながら舞う念仏踊りの一つですが、恐ろしげな鬼の面をつけて踊るところから「鬼剣舞」と呼ばれています。
[由来] 岩崎鬼剣舞の享保17年(1732)の「剣舞由来録」によると、
(1)大宝年間(701~704)修験山伏の祖・役の行者(おづぬ)が大和国吉野川上流で水垢離をとり、大峰山で苦行し、その満願の夕暮れに踊った念仏踊りに始まり
(2)大同年間(806~810)には出羽国羽黒山で舞われ、その修験山伏によって広められ
(3)康平年間(1058~65)には安倍貞任・正任がこの踊りを好んで領内に勧めたそうです。その後、
(4)延文5年(1360)には岩崎城主岩崎弥十郎が主君の和賀政義を招き、城内で踊らせたところ、政義はおおいに喜び家紋の一つ「笹リンドウ」の使用を許可したといいます。
鬼剣舞は、中世の「念仏踊り」をもととしながら、近世初頭から中期までには現在見るような芸態が出来上がっていったものと思われます。

以下の「鬼剣舞」「役行者像(複製)」「今昔百鬼夜行之図」は、それぞれの展示の説明パネル。
「鬼剣舞」 岩崎鬼剣舞保存会、岩手県北上市和賀町岩崎地内、平成5年12月13日国指定
鬼剣舞は、お盆の精霊供養の際に踊られる風流念仏踊りで「念仏剣舞」の一種です。/岩崎鬼剣舞には、享保7(17が正しい)年(1732)に記された「剣舞由来録」があり、それによると、天(大が正しい)宝年間(701~704)に修験山伏の祖・役の行者小角(おづぬ)が天下泰平・万民如意繁栄を願って苦行し踊られた「念仏踊り」に始まるとされ、大同年間(806~810)には出羽国(山形県)の羽黒山で舞われたとされます。/その後修験山伏によって各地に広められたことが記されています。岩崎鬼剣舞の演目には、庭物と呼ばれる4演目のほか、狂い・余興・加持物などがあり全18演目を所持し、年間100回前後の公演をこなしています。
「役行者像(複製)」岩手県北上市、伍大院蔵
修験道の伝説的な開祖。役小角ともいう。葛城山中にて荒行を積み、吉野の金峰山で霊感を得、呪術を身に付けた修験者(山伏)である。前鬼、後鬼の二鬼神を自在に働かせることができたという。
「今昔百鬼夜行之図」
1スサノヲ、2八岐大蛇、3ヤマトタケル、4小子部栖軽、5聖徳太子、6役小角、7吉備真備、8空海、9菅原道真、10安倍晴明等々が記され、図中に、右手に錫杖を持った役行者の立像も描かれている。

「役行者、前鬼、後鬼」(複製)は、彩色された木像で、役行者像は、右手に杖、左手に経巻を持った倚像である。その表情は、今まさに何かを語ろうかとしているかのようである。(2013/07/12)
Ⅱ 岩崎二前神社…岩手県北上市和賀町岩崎27-7
天正十八年(1590)以降に、岩崎秀親が天台宗に入門、吉野坊と改名、修験者となったが、その頃に伍大院が興されたのであろう。明治になって、岩崎二前神社となった。伍大院蔵の役行者、前鬼、後鬼の彩色された木像の複製が、北上市立鬼の館に展示されてあった。また岩崎二前神社の隣に注連山と記した扁額のかけられた建物がある。(2013/07/12)

岩崎二前神社社殿内にあった由緒書
祭神は大那牟遅命、少那毘古名命で、ご神体は石である。桓武天皇の延略二十年に坂上田村麻呂が蝦夷征伐のため、奥州へ下向の際この地を陣場として戦勝を祈願し、大那、少那、八幡大神、多聞天王、弁財天、熊野大神、八坂大神などの諸神を勧請した。然るに将軍賊徒征討にあたり軍馬多数斃死したため、近侍岩崎翁に命じ夏油川西御駒と蒼前鬼柳の高田御駒の三ヶ所にこれを葬り塚を築かせた。将軍の凱旋帰洛に際し岩崎翁はお暇をこい岩崎に残り、十数年間住民を使って西駒ヶ岳の麓から北和賀の南胆沢郡大清水にいたる一帯の地を開拓した。康平五年源頼義、義家が安倍貞任の乱をしずめようとこの地に下り、大昔から住民が尊崇してきた石を御神体として大那、少那二柱の神を産土神として祀った。その後和賀主馬守の信仰により八幡大神を夏油川西舘に、多聞天王を江釣子に移し祀った。寛文、延宝の頃、奥寺八左エ門の新田拓きたてに当たり悪病流行のことがあり、八坂大神を横川目に遷座し奉った。熊野大神は宮田に、弁財天は相去の大清水に移し奉った。天正年中、和賀郡主社殿を再建されご神託により、岩崎翁、源頼義、義家公の神霊を合祀し、祖先頼光の弟多田大和守頼義の後流田村義一を刈田郡より召し別当として社領地をたまい、深山大権現と改号、同人の長子秀親の代、天正十八年豊臣秀吉の陸奥平定のことあり、郡主和賀主馬没落したので、秀親は吉野坊と改名、社領地を持地とし天台宗に入門し修験者となった。子孫代々別当職をつとめ、岩崎村、江釣子、藤根、長沼、堅川目、横川目、尻平川村七箇村の鎮守神として諸費用を分担した。
 明治三年、盛岡県属江刺恒久の神社検分あって岩崎二前神社と改号、同四年九月岩崎新田、煤孫、山口の郷社と定められ、同五年神社区画改正のことあって岩崎の村社となり、毎年旧九月二十九日を祭日と定められた。
Ⅲ 遠野神楽…岩手県遠野市。
遠野物語100年に舞う ―夜神楽―  
 神楽は神々の前で奉納する郷土芸能で、各集落にある神社のお祭りでは今でも神楽が奉納されます。
 遠野の神楽は主に大出早池峰神楽(神人神楽)、山伏神楽、早池峰山伏神楽系統の3つに分かれます。
 大出早池峰神楽は拍子の遅い、女性的で優美な舞、山伏神楽は速いテンポで、荒々しく活発な舞が特徴です。
 6月12日の夜は夕闇に浮かび上がる幻想的な舞台で神楽を披露します。

遠野の神楽は、大宝年間(701~704年)、修験道の祖である役小角が念仏とともに踊ったのが起源とも、大同年間(806~810年)に羽黒山の僧が、荒沢鬼渡大明神で大日如来の化身に伝授されたともいわれる。
踊り手は、胸当て、鎖帷子に赤いタスキをかけ、手平鉦、太鼓、笛の囃子方の曲目にあわせて舞い踊る。念仏剣舞の一種であり、邪気を払うための反閇と呼ばれる独特な足運びで舞う勇ましい神楽。衆生済度、悪魔退治のために行われるのだが、ビリーズブートキャンプも真っ青の炎天のもと相当な体力が要求される踊りだ。
Ⅳ 金円山常福寺…岩手県遠野市新町6。時宗。神奈川県藤沢市清浄光寺の末寺。阿弥陀如来。
 「正平二十二年(一三六七)南部氏七代信光が、現在の山梨県に西沢山神神郷寺を創建したのがはじまりと伝えられる。その後、南部氏と共に青森県八戸へ移り、応永十八年(一四一一)八戸に高波が押し寄せた時、波が退いた砂浜に阿弥陀如来像と鰐喰いの鉦があったので、これを寺宝とし海浮山仏浜寺と改称した。寛永四年(一六二七)遠野南部氏二十二代直義に従って遠野に移り、金円山常福寺と改め、遠野南部氏代々が篤い信仰を寄せた。本尊阿弥陀如来立像と愛宕延命菩薩像は市の文化財に指定されている。/遠野市」(門前にある遠野市の説明板)。
 本堂の背後、位牌堂に、地蔵菩薩が祀られていて、その左に役行者の木像が祀られている。両腕は欠損しているが、右手に錫杖、左手に経巻をもった様子がうかがえる倚像である。杉の木の一木造りだとのことである。江戸時代に製作されたもので、黒塗りされている。一刀彫りのような彫りで、それが現代的な感じを与え、さらに役行者のきりっとした表情とよくあっている。(2012/07/06)
Ⅴ 遠野市立博物館…岩手県遠野市東舘3-9。
「役小角行者像」が展示されていた。小ぶりの全体が濃茶色に彩色された木造の役行者半跏像が展示されていた。右手に独鈷杵?、欠損した左手にはおそらく経巻を持っていただろうと思われる。(2005/08/26)
Ⅵ 大迫あんどん祭り…岩手県花巻市大迫町。
  2006年の川若組の山車が「不動明王/役行者」であった。(筆者未見)