役行者を巡る【埼玉】

役行者を巡る【埼玉県】
  Ⅰ 三峰山【参照:山歩き】
  Ⅱ 今宮神社
  Ⅲ 高麗神社
  Ⅳ 大平山の役行者像
  Ⅴ 武甲山【参照:山歩き】
  Ⅵ 両神山【参照:山歩き】
Ⅰ 三峰山
 三峰山とは、雲取山、白岩山、妙法ヶ岳三山の総称で、三峰三山とも言う。また武甲山、両神山とともに秩父三山の一つに数えられる。役行者が三峰山に飛来し、修行したという。
 三峯神社に隣接する三峰山博物館(埼玉県秩父市三峰298-1)には、江戸時代のりっぱな、謹厳な表情をした役行者、前鬼、後鬼の彩色された木像が展示されていた。説明文は以下の通りである。(2004/04)
  寺時代の三峰山
江戸時代まで三峰山は天台宗本山派修験の山で別当三峰山観音院高雲寺と称していた。/そして、明治の神仏分離令により三峰神社として神道一途になった。多くの神社では仏像等の破壊を聞くが当社では宝蔵に秘かに安置、毎年春秋の彼岸には祀りをして今日に至っている。/ここでは旧本堂に祀ってあった十一面観音をはじめ、お山とかかわる諸仏、軸などを展示した。

  役行者と二鬼像
三峰山は江戸時代まで修験者の活躍する霊場であり、これにより関東一円の信仰も広められた。修験道は役行者を祖師と仰ぎ神聖な山岳にこもり咒術を体得し諸祈祷をおこなうことにより信者の崇敬を得た。/この像は現在境内にある日本武尊神社(旧行者堂)に祀られていた。/江戸時代の作と伝えられる。【写真】
Ⅱ 今宮神社
今宮神社…埼玉県秩父市中町16-10。(2004/05)
【境内の説明板】
今宮神社(旧今宮坊・八大社・八大権現社)について
 略記
 今宮神社は、その前身を長岳山金剛寺(1038)、大宮山満光寺(984)といいました。この両寺創立以前からこの地に、伊邪奈岐大神、伊邪奈美大神が祀られていました。大宝年間(701~704)には、役行者がこの地に、飛来して八大龍王を合祀し、八大社と呼ばれていました。/奈良時代には宮中八神……が祀られ、降って大日如来が習合され、八大権現社と観音堂……を創建・相前後して満光寺弁天堂が創られました。天文四年(1535)には当地に疫病が流行したため、京都今宮神社より須佐之男命……を勧請して今宮神社を創建しました。/永禄十二年(1569)には一山を総称して聖護院直末「長岳山今宮坊」と称し諸国先達二十九寺の一として又本山派年行事職として栄えました。
(中略)
 明治維新時には、神仏分離令により、今宮坊は今宮神社と今宮観音堂(現十四番)に分けられ、……(以下略)
  平成五年四月 今宮神社宮司(今宮坊二十世)塩谷太刀雄 敬白
境内には、樹齢1000年の大欅(龍神木)と武甲山の伏流水からなる泉(龍神池)がある。
【長岳山今宮坊】…埼玉県秩父市中町25-12。(2004/05)
明治時代の神仏分離令によって、分けられた今宮観音堂は、今宮神社から徒歩1分の地に「長岳山今宮坊」として存続。臨済宗南禅寺派。本尊は聖観世音菩薩。秩父三十四ヶ所観音霊場の第十四番札所です。
   【再建された行者堂の説明(今宮神社)】
  役尊神祠(行者堂)再建にあたって
 社記によれば、当社の前身は長岳山金剛寺、大宮山満光寺といい、ここに古来より武甲山の伏流水が湧き出る池があり、大宝年間(701~4)役行者によって「八大龍王」が祀られて八大宮と称しました。役行者は舒明6年(634)葛城山の麓、茅原の里(現奈良県御所市)に出雲の加茂氏と葛城氏の娘渡都岐(とつき)の間に生まれ、仙道、道教、古神道、仏教を学びました。しかしこれに満足せず「人間完成の探求と実践こそ神仏の境地到達の路であり、国家平安、万民幸福の根本である」と悟り、葛城山、金峰山へ入り難行苦行され、遂に法起、龍樹菩薩から乱れた世を救う秘法を授かりました。当時人心は荒れ、凡教も頽廃して末世の様相であることを嘆いた役小角は、悪魔(悪病や災厄、人間の欲望や煩悩)を降伏させることのできる御本尊を求めてさらに修行し、金峰山で忿怒の相の金剛蔵王権現を祈り出して、吉野の金峰山寺山下の蔵王堂にまつりました。
 羽黒、立山、浅間山等を開き、道場を建てること二百余ヶ所、厳しい自然の中に御仏の教えを求めて、強固な精神力と高邁な人格を身につけられた姿は、何人をも魅了してやまなかったと伝えられています。いつも弱者の側に立ち、治水工事、病気治療、鉱山開発、情報収集などを指導し、「神か仏か、仙人か」と人々から仰がれました。一説に、壬申の乱(672)では天武天皇を勝利に導き、後天皇より重く用いられました。この前後、今宮神社、武甲山、三峰、慈光寺に飛来し、当処に「八大龍王」を祀り「秩父霊場発祥の地」といたしました。凡そ、八百年後の天文五年(1536)秩父札所が34ヶ寺整えられました。その後「江戸出開帳」も成功し、巡礼路も拓かれて、秩父は日本有数の霊場に発展して、役行者は秩父を開拓した恩人として幕末まで人々から尊敬されました。
 文武3年(699)、弟子の韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に図られて、無罪の罪により伊豆大島に流されましたが、再び文武天皇に迎えられ「国人(くにびと)の心の親」となられ、寛政11年(1799)の千百年遠忌には、朝廷(光格天皇)から「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の称号を賜りました。
 役行者が当社に祀った八大龍王は、水の神、仏法を守る神であり観音菩薩から慈悲の心(宝珠=玉)をいただいた神様です。四月四日の秩父神社のお田植え祭は、今宮神社の霊水をいただきに来られることから始まります。このように、役行者と八大龍王は、秩父霊場や秩父の人々の生活に深く係わられて、今日の秩父発展の礎となられました。
 明治からの百余年は、多くの人々に文化生活を享受させてはくれましたが、それは物質文明競争の暴走で自然破壊を招き、人々の心もまた、荒ませてしまいました。これからは、もっと「水」を愛し「真理」を学んで、自然と人類が共存共栄できる世の中になることを心から祈念し「役尊神祠」(行者堂)の再建をいたしました。
 平成八年三月 今宮神社宮司(今宮坊二十世)塩谷太刀雄  敬白
Ⅲ 高麗神社
高麗神社…埼玉県日高市大字新堀833。(2016/05/06)
【高麗神社の由緒と歴史】(高麗神社のHP、2016/05)
■ 高句麗
 高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
 最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。
 若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。
 『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。
■ 高麗郡建郡と高麗神社
 若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。
 高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。 高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。
冊子『御鎮座千三百年・高麗神社と高麗郷』【高麗神社の物語】の「高麗氏と修験道」の項。
  平安末期から修験の道を歩み始めた高麗氏。以後江戸時代まで修験者として里人の要請に応え、近隣子弟の教育にも当たりました。時代を越えて郷土とともに生き続けた修験者としての高麗氏に光を当てます。
 七世紀役行者によって開かれたと伝えられている修験道は、日本各地の霊峰を行場としました。高麗氏は平安末期から明治期にいたるまでの三十四代にわたり修験者でした。その高麗氏が初めて役行者を信心したのは、一説によれば園城寺の僧行尊が東国各地の霊蹟を巡る途次、高麗家に立ち寄ったことがきっかけであったといわれています。二十三代麗純は、康治二(一一四三)年大峯修行(吉野から熊野に至る大峯山系を歩いて修行すること)を行い高麗氏で初めての修験者となりました。以後、高麗氏では大峰山、羽黒山、富士山などの霊峰で行を修め、祈祷などで人々を救いました。(以下略)
Ⅳ 大平山の役行者像
大平山の役行者像…埼玉県入間郡越生町。(2017/05)
 大平山の役行者像は、黒滝三滝から山道を登っていくと、正面の高所に堂々と現れた。思った以上に大きく感じた。【写真】
 等身大の丸彫りの石像で、右手に数珠、左手に経巻を持った倚坐像である。蓑を掛け、高下駄を履いている。足元に前鬼、後鬼の石像。さらにその左手に不動明王、右手に観音菩薩が祀られている。またその右奥には四基の石塔があった。
  役行者像は、下記の石碑「高祖役行者像由緒の記」に記されているように、江戸時代末期の1865年に建立されたもので、2006年12月に頭部を欠損し、2007年9月に修復された。役行者像の表情からは、何ごとも一つ一つ丁寧に成し遂げるという決意が見てとれるようだ。
「越生町指定有形文化財(彫刻)/石造役行者坐像付石像四軀/平成十九年四月十七日指定」「町制施行百周年記念/越生町再発見100ポイント/75大平山の役行者像/平成元年度選定/平成二十八年度再建」

高祖役行者像由緒の記
山本坊栄円法印は室町時代の応永元年(一三九八)当地黒山に熊野信仰を勧請し、一帯を関東の熊野修験霊場として整備した。江戸時代には西戸村(現毛呂山町)に本拠を遷し、以降も越生山本坊を称し、本山派聖護院二十八先達の一つに数えられる大先達として関東一円の修験に勢力を及ぼした。/此処大平山に鎮座する高祖役行者の尊像は、元治二年(一八六五)の建立である。経緯は詳らかではないが、険阻な山路を黒山の村人が総出で運び上げたと伝えられている。明治維新の神仏分離により修験山本坊は幕を閉じたが、尊像への崇敬は途絶えることなく、明治、大正、昭和の星霜を送った。/平成九年九月十二日、法縁あって、/京都の本山修験宗総本山聖護院門跡第五十一世門主・加来徳泉師一行が登拝されるところとなった。これを機に、地元信者は、/越生聖護院門跡講を組織し、/山本坊以来の法灯を受け継ぐこととなった。平成十八年の暮、尊像は何者かによって倒され、尊顔が失われるという災難にみまわれた。/聖護院の指導協力のもと講員一丸となって直ちに再建に着手した。多くの浄財と労力奉仕を得て事業は順調に進み、平成十九年九月十二日、本山第五十二世門主・宮城泰年師のもと四十名の山伏を以て、採燈大護摩供が挙行され修復は完了を見た。ここに建碑して由来を後世に伝え、地域の安泰と修験興隆を祈念せんとするものである/平成二十年九月十二日/越生聖護院門跡講篤信の一同
Ⅴ 武甲山
武甲山…埼玉県秩父郡横瀬町大字横瀬。(2004/05)
 秩父三山の一つ。役行者が飛来し、修行したともいう。
Ⅵ 両神山
両神山…埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄。(2004/05)
 秩父三山の一つ。役行者が開山したともいわれる。

         役行者と二鬼像(三峰山博物館)

              大平山の役行者