役行者を巡る【京都市内】(1)

役行者を巡る【京都市内】(1)
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京都市
【北区】➀志明院、②菩提ノ滝、③神光院、④浪切不動寺、⑤清修院行者堂、⑥金閣寺、⑦西徳寺、⑧深泥池貴舩神社
【上京区】光源院行者堂
【左京区】➀三国岳・一の岩屋、②長谷八幡宮、③十王堂、④峰定寺、⑤鞍馬寺、⑥岩上地蔵尊、⑦小野神社、⑧赤山禅院、⑨山中の役行者(滋賀県参照)、⑩地獄谷不動院、⑪身代り不動堂、⑫乗願院、⑬行者の森、⑭瑞光院、⑮矢留鬼不動堂、⑯聖護院、⑰積善院準提堂
【中京区】➀役行者山、②役行者山の井、③水かけの行者さん
【東山区】➀行者橋(一本橋)、②清水寺(音羽の滝)、③三十三間堂
【南区】光福寺、
【右京区】➀愛宕山、②空也滝、③行者庵
【伏見区】➀醍醐寺、②供水峠西の石仏群、③北向山不動院
【山科区】➀十禅寺、②四宮大明神、③法厳寺
【西京区】➀正法寺、②勝持寺、③金蔵寺、④樫原の役行者
【写真一覧】
京都市北区
➀【岩屋山金光峰寺志明院】…京都市北区雲ヶ畑出谷町261。(2000/12)
 桟敷ヶ岳の西麓に所在。志明院は、役行者が不動明王の示験により草創し、空海が再興した。中院洞窟・開山堂の右脇に、役行者の石像が祀られていた。【写真1】
 京都市の説明は、以下の通りである。
 志明院[しみょういん](金光峯寺)/岩屋山と号し、真言宗単立寺院である。一般に岩屋不動と呼ばれている。寺伝によれば、白雉元年(六五〇)に役行者が創建し、のち天長六年(八二九)弘法大師が淳和天皇の命により再興し、以来皇室の勅願所として崇敬が深く、天下の平和を祈願のため諸堂開扉の詔があり、この時「志明院」の勅願を天皇から賜わって以来これを寺号にしたという。度々兵火や火災にあい、現在の主要建物は明治以降の再建である。/本堂には空海の開眼と伝える不動明王を安置する。奥院である根本中院には菅原道真の手彫と伝える眼力不動明王を安置する。また境内には歌舞伎「鳴神」で有名な鳴神上人が龍神を閉じこめた所と伝承される護摩洞窟など修験道にちなむ伝承地が多い。また付近一帯には石楠花が多く、四月下旬に開花して美しい。
②【菩提ノ滝】…京都市北区鷹峰菩提。(2006/11)
 大岩が切り開かれたところで、右下(南)に下れば菩提ノ滝である。そして左の大岩の上には、役行者、前鬼、後鬼の石像が祀られている。
 鋭角的な彫りの石像で、役行者の顔の表情は、穏やかにほほえんでいる。台座には「宝暦十庚辰年五月吉日」(1760)の銘があった。【写真2】
③【放光山神光院】…京都市北区西賀茂神光院町120。(2012/01)
 真言宗。本尊は弘法大師。
 東寺(教王護国寺)、仁和寺と並ぶ京都三大弘法の一つ。
 境内の岩上に、役行者と不動明王の石像が祀られている。諭すかのような表情を見せている役行者像は、半浮き彫りの石像で、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。右奥に本堂がある。【写真3】
 門前にある京都府の説明板は、以下の通りである。
……寺伝によれば、建保五年(一二一七)に上賀茂神社の神主、賀茂能久が「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、当寺を創建したと伝えられている。寺名はこの由緒に因み、「神光院」と名づけられた。以後、密教の道場として栄えたが、天保年間(一八三〇~四三)に災火により堂宇を焼失した。明治一一年(一八七八)、和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。/本堂に安置する弘法大師像は、大師が自ら刻んだものと伝え、「厄除大師」の名で知られている。……
④【赤坂谷光明山浪切不動寺】…京都府京都市北区衣笠赤阪町。(2010/02)
 立命館大学前バス停から堂本印像美術館の東側の道を北上し、氷室道(バス道)に出会ってすぐ先に、身代不動明王の看板がある。さらに進むと、浪切不動寺、その先には不思議不動院(次項参照)の看板が出ている。
 浪切不動寺の説明板には次のように記されている。
 ……昭和三十年に至り当山剱動不動明王の夢枕に現われて曰く「四國浪切不動明王を当山にむかえ来て多くの衆生を助けよ」との御告げあり……。
 すなわち四国八十八番結願所大窪寺の浪切不動明王との縁を持ったお寺である。浪切不動寺の本堂の右手、奧に滝の行場があって、左から役行者、不動明王、弘法大師の石像が祀られている。役行者の半肉彫りの石像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚坐像である。目をかっと見開き、両足を開いた力強い姿をしている。【写真4】
⑤【清修院行者堂】…京都府京都市北区衣笠赤阪町1-1。(2010/02)
 真言宗。
 大北山大宝寺不思議不動院の案内書には、「……初代院主の酒井圓心師が難渋苦労している人びとを救済する為、不思議な利益を与えようとする願いから開山された寺院である。境内には本尊不思議不動明王をはじめ、霊験あらたかな八百萬の神仏が祀られ、寺域は誰いうともなく“不思議之谷の不思議さん”と呼び親しまれている」と記されている。
 不思議不動院の北側の並びに天門院があり、天門院の本堂の左横を進むと、清修院行者堂がある。行者堂の内部に祀られている尊像は分からないが、境内の南側に、左から修行大師、役行者、不動明王、天将不動尊などの石像が祀られている。役行者の石像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。【写真5】
⑥【金閣寺】…京都府京都市北区金閣寺町1。(2009/12)
 臨済宗相国寺派。北山鹿苑寺。関西・神仏霊場会第九十三番。
 弘法大師の作と伝えられる、石不動明王を祀る不動堂の右側の外壁に、大峰登山供養の板碑が掲げられていた。
⑦【西徳寺】…京都市北区平野桜木町。浄土宗。(2012/05)
 「わら天神前」交差点の西南に、小北山八幡宮がある。その西側の鳥居辺り、南北に隣接している西徳寺の壁に、不動明王と役行者が祀られている。
 役行者は丸彫りの石像で、右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像である。その足元の前鬼、後鬼は肉彫りである。役行者は、厳しさの中に、慈しみを含んだ優しい表情をみせている。【写真6】
⑧【深泥池貴舩神社】…京都市北区上賀茂深泥池町55。(2010/04、2010/09)
 「深泥池の旧鞍馬街道には保元二年(西暦一一五七年)に、京の六地蔵の一つ、御菩薩池地蔵(現鞍馬口地蔵)が祀られ、室町時代には関所が置かれていた。/当神社の御祭神は高龗神と申し上げ、雨水を司る龍神で、古くから鞍馬山麓の貴船に鎮座せられる貴船神社の分社として、深泥池の農民によって、勧請したものである。……」(石碑に記された「深泥池貴舩神社の由来」より)
 本殿の後、左手(北西)に、役行者二体が祀られていた。二体とも、おそらく右手に錫杖、左手に経巻を持った丸彫りの倚像であるが、風化、破損が進んでいる。深泥池貴舩神社の少し南に、深泥池地蔵がある。【写真7】
【京都市上京区】
【相国寺光源院行者堂】…京都市上京区相国寺門前町。(2007/06、2011/08)
 臨済宗相国寺派。
 池田輝政が母のために相国寺善応院を創建。明治18年に廃寺となった善応院を光源院が合併し、善応院のあった現在地に移った。
 行者堂がある。山門前には石碑があって、役行者が祀られていることを示している。相国寺信心教社第一号連山組が毎年6月に、大峰山に入峰しているという。
 行者堂の右に奉三拾三度供養碑の一部が残されている。行者堂内には「神変大菩薩」の扁額がかかっている。厨子は閉じられているので、詳細は分からないが、役行者像が祀られているようだ。
【京都市左京区】
➀【三国岳・一の岩屋】…京都府京都市左京区久多上の町。(2009/10/31)
 京都府立大学久多演習林管理舎から三国岳山頂に向かうと、途中に三つの岩屋がある。
 一の岩屋には不動明王と役行者が祀られていて、二の岩屋、三の岩屋には不動明王が祀られているという。
 広い一の岩屋の奧に、左に不動明王、右に役行者の石像が祀られている。岩屋に安置されているからか、あまり風化をしていない。(高肉彫りの)役行者は、右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像である。面長で、優しい笑みを浮かべている。足元に前鬼、後鬼を従えている。【写真8】
②【長谷八幡宮】…京都市左京区岩倉長谷町1117。(2012/01、2014/09)
 「長谷八幡宮由緒」によれば、社名は八幡宮、祭神は惟仁親王、仁徳天皇で、創建は天安元丑年(857)である。細部については、文字が消えかかっていて読めない。末社は、蛭子社、蔭山社、疫神社、蔵王社、稲荷社、神明社、春日社、山王社、梅宮社、鴨皇神社、□□社である。
 長谷八幡宮本殿の裏、東西に流れる小さな沢の向かいに、石祠があって、役行者、後鬼の丸彫りの石像が祀られている。役行者は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、角張った顔の作りであり、正面をきっと見据えた表情をしている。水瓶を持った後鬼は、頭部が欠けている。台座には、大峯山上、安永三甲午年四月(1774)、長谷川講中の銘がある。またその前には「奉納・叡和講」「大峰修行供養塔建立記念」と彫られた花立がある。【写真9】
 また長谷町(朗詠山長源寺)から寒谷峠・瓢箪崩山に向かうと「飛騨池」があり、その少し先に「聖護院門跡長谷廟所」がある。石柱の後ろには、平成二十五癸巳年一月吉日とあって、廟所は整備の途上にあるようだ。
③【十王堂】…京都市左京区岩倉西河原町。(2010/09)
 十王堂橋の西詰北。
 「地獄の十王を祭っていたお堂が残る。十王像は現在は是心寺に祭られている。その昔この岩倉川を三途の川に見立て、葬列が渡り、先にある惣墓(集合墓地)に向かった」(「近隣歴史散策地図」実相院の中にあった周辺案内図の十王堂橋の説明)。
 現在は、堂内に役行者の石像が祀られている。右手に錫杖、左手に経巻を持った丸彫りの倚像である。堂前の石灯籠は、岩座組による大峯山三十三度登拝供養、明治三十三年のもののようだ。【写真10】
④【大悲山峰定寺】…京都市左京区花背原地町772。(1999/06)
 天台宗。聖護院の直末寺。
 850年前に、大峰熊野の修験者、三瀧上人観空(西念)によって創建された。大悲山は大峰山に対して北大峰とも称せられ、古来より修験道の修行場となっている。
 堂谷晩鐘の後ろに、苔むした役行者の浮き彫りの石仏、行者堂には役行者像が祀ってあるとのことであったが、確認できなかった。また行場の鐘掛岩には、裸の行者像が祀ってあるとのことであるが、行場は立入禁止になっている。
⑤【鞍馬寺】…京都市左京区鞍馬本町1074。(1995/06~2010/04)
 鞍馬弘教総本山。
 本尊(尊天)は千手観世音菩薩、毘沙門天王、護法魔王尊。
 神峰山寺縁起では、役行者が得た霊木で、水神・金毘羅童子が四体の毘沙門天を刻み、一体は神峰山寺に、残り三体は飛び去り、それぞれが鞍馬寺、信貴山朝護孫寺、本山寺の本尊となったという。
⑥【岩上地蔵尊】…京都市左京区鞍馬本町。(1995/06、2004/06)
 くらま温泉の前に岩上地蔵尊の祠があって、その右に半肉彫りの役行者の石像が祀られている。足下には前鬼、後鬼が控えている。役行者は、真剣な表情をしている。前鬼、後鬼も同様だが、どこかユーモラスに感じる。【写真11】
⑦【小野神社】…京都市左京区上高野西明寺山町34。(2008/01)
 叡山電鉄三宅八幡駅下車。
 駅前に案内板がある。崇道神社の参道を進むと石段の下、右手に小野神社がある。小野神社の左手に行者之滝があり、右手に石祠があって役行者の石像が祀られている。石祠の前の石灯籠には神変大菩薩と彫られていて、その後ろには寛政十二庚申年(1800)の銘がある。【写真12】
⑧【赤山禅院】…京都市左京区修学院開根坊町18。(2006/12、2017/06、2019/04)
 天台宗修験道総本山管領所。本尊は赤山大明神。
 雲母不動堂に、役行者の木像が本尊・雲母不動明王の左に祀られているようだ。すすけているようで、よく分からないが、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像のようにみえる。境内に新羅大明神も祀られている。
⑨【山中の役行者】(滋賀県参照)
⑩【地獄谷不動院】…京都府京都市左京区北白川地蔵谷町1-244。(2007/07)
 真言宗醍醐派。
 北白川山地獄谷不動院。不動温泉にある。
 不動堂の堂内に不動明王の木像が祀られている。その左に役行者、右に理源大師の画幅が祀られている。また右手に弘法大師の木像が祀られている。
⑪【身代不動堂】…京都市左京区北白川仕伏町。(2007/07)
 北白川身代不動尊。
 修験宗総本山聖護院門跡神変講社山田講。
 1992年に造像200年慶讃法要が執り行われたという。不動明王の左に、役行者の石像が祀られている。その足元には斧を持った前鬼の石像が祀られている。
⑫【霊芝山乗願院】…京都市左京区北白川仕伏町。(2007/06~2019/09)
 浄土宗。
 北白川仕伏町バス停から東に向かい、突き当たりのすぐ左に乗願院がある。
 その山門前、右にお堂があって、半浮き彫りの役行者、前鬼、後鬼の石像が祀られている。役行者像は、厳しいが、端整な顔立ちをしている。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。役行者の右に不動明王、左に弁才天が祀られている。【写真13】
 京都市の説明板は、以下の通りである。
  乗願院
 浄土宗に属す。
 寺伝によれば、もと延暦寺の支坊であったが、元亀二年(一五七一)、織田信長の比叡山焼討ちの際に焼失したといわれる。
 しかし、慶長十三年(一六〇六)に信誉上人によって再興され、それ以後、江戸時代を通じて、照高院(後の北白川宮)の御霊所となり、照高院四代通寛法親王によって乗願院山が寄進されるなど数々の保護が加えられた。乗願院山には、照高院の墓地があり、寄進以降は当寺が管理することとなった。
 本堂は、もと上賀茂神社境内にあった神宮寺観音堂をを譲り受け、明治二年(一八六九)に移築したものである。日光や風雨を防ぐための戸である□は珍しいものであり、蛙股の彫刻ほか寛永期(一六二四~一六四三)の建築物の特徴がよく見られる。明治に至って照高院は廃絶したが、通寛法親王らの位牌は、現在に至るまで当院にて安置されている。
⑬【行者の森】…京都市左京区銀閣寺町。(1999/03~2011/10)
 銀閣寺の北側、大文字山参道の登山口に、行者の森があって、神変大菩薩の石祠に、優しげで端正な役行者の浮き彫りの石像が祀られている。【写真14】
⑭【瑞光院】…京都市左京区鹿ケ谷徳善谷町4-41。(2012/02、2015/05)
 高野山真言宗。本尊は浪切不動明王。
 開山は1954年で、2014年に60周年を向かえた。瑞光院のすぐ先には、「俊寛僧都旧跡道」の石柱があって、そこから山道を登ると、楼門の滝、俊寛僧都忠誠之碑を経て大文字山へと向かう。京都一周トレイル東山コースの標識「東山47-2」の地点である。
 二度目に行った時に、縁起が記された案内板があるのに、気がついた。
 「鹿ヶ谷山徳善谷/浪切不動尊縁起/當所鹿ヶ谷山徳善谷に鎮座まします浪切不動尊の御本體は高野山は別格本山南院に安置奉る弘法大師一刀三礼の御作になる霊尊であります/大師仏法修行の秋留学を了へ唐土より御帰朝の砌海上に立ち荒れ狂う浪風を切り払い大師の一命を御加護されたる御方であります/往時天慶将門の乱を平定後御劔を尾張熱田の宮に留め弘安元寇の役には九州志賀の里の敵前に護摩を修して火焰を彼地に遺し醍醐大峯の霊峯を拓き建武の中興明治御維新の大業を完成する等其の靈験は数うるに遑がありません不動尊は常に汗膏にまみれ我々と労苦を共にされ全身に火焰を吹き出して罪障災厄を焼き盡し給う未来浄土の佛にあらず現世焦土救済の御本尊であります殊に浪切不動尊は我等心中の迷妄を切り払い其の御利益は日々に現證され其の御威徳は恒に新たであります/昭和二十九年十一月二十八日吉晨を卜して御縁の許に御分霊の勧請奉斎を致しました/以上/高野山派/真言宗/瑞光院」
 護摩壇の浪切不動明王に向かって左に、役行者を祀った石窟があり、小ぶりな役行者の青銅像が祀られていた。倚像で、左手には数珠が掛けられていた。痩身で、きびしい修行を偲ばせる表情をしている。【写真15】
⑮【矢留鬼不動堂】…京都市左京区鹿ケ谷徳善谷町。(2012/02、2015/05)
 瑞光院を下ると、すぐ先に矢留鬼不動堂がある。本尊は、小さな木像の神変大菩薩役行者で、正面の厨子に祀られている。倚像のようで、右手には新しい錫杖が掛けられていた。役行者の左には不動明王など、右には弘法大師、お釈迦さんが祀られている。
⑯【聖護院】…京都市左京区聖護院中町15。(2000/04、2006/12、2009/12)
 聖護院門跡。森御殿。本山修験宗総本山。
 本尊:(銅造)役行者半跏像・前鬼後鬼坐像(元禄八年[1695]、出羽守政常作)(『役行者と修験道の世界』毎日新聞社、1999年、18、206頁)
 (画像)役行者前後鬼・八大童子像(絹本着色、南北朝時代)(同上、22、208頁)

 社務所二階に、平安時代の作という不動明王の右に、昭和時代の作という役行者と前鬼、後鬼の木像が祀られていた。また修行で持ち運びのできる小さな役行者と前鬼、後鬼の木像が祀られていた。(2000/04)
 社務所二階に、阿弥陀如来の右に役行者と前鬼、後鬼の木像が祀られていた。元禄八年に作られた銅造のものと同様の姿に作られたものである。(2006/12)

 京都市の案内板には、聖護院について、次のように記されている。
聖護院/本山修験宗総本山の寺院である。/平安時代の寛治四年(一〇九〇)に、白河上皇が紀州(現在の和歌山県)の熊野三山を参詣する際、修験者(山伏)として有名であった増誉大僧正が、先達(案内役)を努めた功績により寺を賜り、聖体護持の意味から聖護院と名付けたという。修験道とは、日本古来の山岳宗教と、仏教の密教、道教などが結び付いて平安末期に成立した宗教で、役小角を開祖とする。/応仁の乱をはじめ、度重なる火災に遭い、各地を転々とした後、延宝四年(一六七六)に再興されたのが現在の主な建物で、書院(重要文化財)は京都御所の御殿を移したものである。天明八年(一七八八)と安政元年(一八五四)の御所の炎上に際し、光格天皇と孝明天皇が一時、仮皇居として使用したため、「聖護院旧仮皇居」として、国の史跡に指定されている。

 また文部省の「史蹟聖護院旧假皇居」の「説明」は、以下の通りである。
本山修験宗の総本山であって延宝年間烏丸通今出川の地から現地に移され本堂書院宸殿庫裡等が造営された。/天明八年正月三十日京都御所炎上の際光格天皇は當院に御避難され寛政二年十一月二十二日迄假皇居となった。次で安政元年四月六日御所炎上の際孝明天皇は皇子祐宮(明治天皇)と共に御避難同月十五日まで御滞在された所であってよく旧規模を有している。その故に昭和十一年史蹟として指定された。
⑰【積善院準提堂】…京都市左京区聖護院中町14。(2009/12)
  聖護院門跡塔頭。聖護院の東隣。
 積善院準提堂で頂いた『積善院準提堂略観』には、次のように記されている。
◆由緒沿革
 積善院は代々山伏を統轄した聖護院門跡の院家として鎌倉初期に開創された。/聖護院が地方山伏に対して行う事務を代行してきた寺で、本山派山伏の筆頭寺院に当る。/明治初年、現在の熊野神社交差点南東角にあった準提堂と合併し大正三年、現在の地に移転した。
◆現況
 現在の寺院は準提堂を本堂とし、ここに本尊の準提観世音菩薩と、旧積善院本尊の不動明王の二躰を合祀しており、その西側の元積善院本堂には、役行者像並びに阿弥陀如来等を祀っている。/その他境内には旧聖護院村当時の各所に祭られてあった石地蔵五十一体を合祀し、また浄瑠璃で有名な、お俊伝兵衛心中の供養塔も建立されている。/その他、寺宝として「準提観世音菩薩」「不動明王」「崇徳院地蔵」「お俊伝兵衛供養塔」の説明、五大力尊法要についての説明が記されている。

 境内の西側に行者堂があって、その中の厨子に、岩窟の役行者を中心にして、その周囲を蔵王権現、前鬼、後鬼が彫られた木像が祀られていた。役行者は右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像である。またそのすぐ左横に、小さな木像の阿弥陀如来と、さらに小さな蔵王権現が祀られていた。
【京都市中京区】
➀【役行者山】…京都市中京区室町通三条上ル役行者町。
 祇園祭の宵宵山に、役行者山を見る。(2000/07)
 祇園祭山鉾巡行で、役行者山を見る。(2003/07)
 京都文化博物館で、「祇園祭―役行者山の名宝―」を観る。(2018/02)

京都祇園祭・役行者山保存会のホームページ(2018/02)。
【祇園祭 役行者山保存会】
 役行者山は応仁の乱以前からの舁山で御神体は修験道の開祖役小角、尊称神変大菩薩役行者と一言主神と葛城神の三神で、役行者が一言主神を使って葛城山と大峰山の間に橋を架けさせたという伝承を想起させる。
 正面に役行者が帽子(もうす)を被り袈裟・掛絡(くわら)を纏い経巻・錫杖を手に祠に座し、葛城神は女神で手に輪宝を、一言主神は鬼形で赤熊(しゃぐま)を被り斧を携える。水引は綴錦の名手西山勘七作の唐子遊図、二番水引は萌黄地龍文図に正面に壽を織り出し、前懸は岩牡丹胡蝶図を中央に、左右に雲龍文様の三枚重ね、胴懸は真向龍文様、見送りは袋中上人(たいちゅうしょうにん)請来の朝鮮軍旗で、昇龍波濤文様の二枚重ねを紅地古金欄安楽庵裂(あんらくあんきれ)で縁取ったものと、中国明朝官工場で織られた金地唐美人園遊図と、それを昭和五十七年復元新調した三種がある。欄縁の黒漆塗に高浮彫雲龍と輪宝文様の鍍金金具は見事である。平成二十年浅葱色と朱色の飾り房三十本が復元新調された。宵山の七月二十三日には本山修験宗総本山聖護院による護摩焚が行われる。
【護摩焚供養とは】
 護摩焚とは紀元前1000年頃インドで成立したバラモン教の火炎崇拝に起源をもつ宗教儀礼です。
 役行者山では毎年祇園祭の後祭宵山の七月二十三日午後二時ころから修験道の大本山聖護院から山伏姿の僧侶が多数参詣し読経後に山伏問答を繰り広げます。六本の聖矢が東西南北と護摩壇、 鬼門に放たれ清められるといよいよ護摩壇が点火され空に向かって白煙がたちこめます。
 護摩壇に人々の願いを託した護摩木が次々にくべられるといよいよ厳粛な空気に包まれます。終わる際には見物人らが厄除けの後利益が授けられた護摩壇の檜葉や御幣を持ち帰られるのも 毎年の光景です。
 路上にて護摩焚供養の儀式が行われるのは世界中でも唯一ではないかと思われます。皆様もぜひこの機会に尊い儀式を体感され厄を払い御利益を拝受されてみては如何ですか。
【パワースポット行者石&一言井戸】
 当町会所(かつらぎ会館と言います)の鬼門の位置に当たる北東にはパワースポットがあります。
 今より千三百有余年前、役行者神は金剛葛城の峯々や大峯の山々で厳しい修行に励まれました。修行で会得された業は数多く、その中には時空を超える業もあったと伝えられています。
【行者石】
 この石は役行者神が生地茅原の里(現在の奈良県御所市にある吉祥草寺)から時空を超え瞬間移動 でこの『行者石』に座し精神修行をされたそうです。
 また、この『行者石』に手を当て全身の凝りを解したとされています。どうぞ皆様もこの『行者石』に手を当て、役行者神の精神と御徳をいただかれ、全身の凝り、特に肩や腰の凝りなどを解される事を心よりお祈り致します。
【一言井戸】
 この井戸は役行者神が生地茅原の里(現在の奈良県御所市にある吉祥草寺)から時空を超え瞬間移動する際に用いたとされています。吉祥草寺にも現存します。
②【役行者山の井】…京都市中京区室町通姉小路。(2000/07)
 役行者山の会所の庭にある。
 神変大菩薩の人形を納めてある倉庫の西側で、石台形の花崗岩の井戸枠がある。行者影向の水と伝えられ、祇園祭の時には、その水を香水としていただかせる。
③【水かけの行者さん】…京都市中京区中筋町。(2009/05、2016/12)
 華嶽山東北院誠心院。
 真言宗泉涌寺派。本尊は阿弥陀如来。
 誠心院は、和泉式部を初代住職とする寺で、「寺伝によれば、関白藤原道長が、娘の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりとされる。当初、御所の東側(荒神口の辺り)にあったが、鴨川の氾濫などにより一条小川(上京区)に移築再建され、更に天正年間(一五七三~一五九一)、豊臣秀吉の命令でこの地に移された」(門前の京都市の説明板)。
 誠心院は新京極通にあって、六角通と蛸薬師通の間くらいに位置する。本堂を前にして、右側に「役の行者(神変大菩薩)/水かけの行者さん」がある。
 丸彫りの役行者、前鬼、後鬼の石像が祀られていて、水掛をするようになっている。役行者は、右手に錫杖、左手に経巻・数珠を待った等身大の倚像である。平成十二(2000年)年に建立されたもので、端整で笑みを浮かべた表情をしている。【写真16】
【京都市東山区】
➀【行者橋(一本橋)】…京都市東山区石橋町、林下町。(2009/04、2015/11、2017/11)
 「この橋は、比叡山の阿闍梨修行で千日回峰行を終えた行者が、粟田口の尊勝院の元三大師に報告し、京の町に入洛するとき最初に渡る橋であり、行者橋とも阿闍梨橋ともいわれる」(京都市の案内板)。
 人がやっと一人渡ることのできる細い石橋である。古川町の商店街の南端の東側あたり。または地下鉄東西線東山駅付近の三条通りの白川橋から白川沿いに南に下って、四つめの橋。二つめの橋も同じような石橋である。
②【音羽山清水寺(音羽の滝)】…京都市東山区清水1-294。(2000/04、2006/03、2008/12)
 北法相宗大本山。
 音羽の滝の不動明王の左に、役行者と前鬼、後鬼の石像が祀られている。きりりと引き締まった顔つきをしている。延鎮が音羽山の滝で出会った白髪の行者・行叡かも知れない。【写真17】
③【蓮華王院三十三間堂】…京都市東山区三十三間堂廻町657。(2003/12、2009/12)
 本尊は十一面千手千眼観世音。
 中尊の後ろに役行者、前鬼、後鬼の木像が祀られていた。役行者は右手に錫杖を持つ倚坐像。
【京都市南区】
【医王山蔵王堂光福寺】…京都市南区久世上久世町826。(2007/07)
 西山浄土宗。
 洛西観音霊場第十九番札所。
 本堂の蔵王堂に、蔵王権現を中心にして、右に「役行者尊」、「開基浄蔵貴所」、左に「地蔵大菩薩」、「観世音菩薩」が祀られているというが、拝観はできなかった。
【京都市右京区】
➀【愛宕山】…京都市右京区嵯峨愛宕町1。(1995/06~2015/02)
 愛宕神社。総本宮京都愛宕神社。愛宕太郎坊。日本八天狗。
  「総本宮京都愛宕神社」のホームページに、「愛宕山」「御由緒」が次のように記されている。
【愛宕山(あたごさん・あたごやま)】
京都市北西部、上嵯峨の北部にある標高924メートルの山。古来、山城と丹波との国境に位置し、都にあって最初に朝日をうけることから朝日峰(あさひがみね)とも称された……。
【御由緒】
当社は全国に約900社を数える愛宕神社の本社として、京都市最高峰の霊山である愛宕山上に鎮座する。古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られ、京都府内はもとより近畿地方を中心に全国から参拝者が絶えない。
 その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~704)に修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立。
 その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えるが正確な史実は不明である。
 早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に七高山の一つに数えられた。
 神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、境内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していたが、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っている。
 尚、本地仏であった勝軍地蔵は神仏分離の際、金蔵寺(京都市西京区大原野)に移され現在も大切にお祀りされている。
 平成15年9月28日、愛宕神社御鎮座1300年祭が執り行われた。

 また愛宕神社バスターミナルにある京都市の案内板には「清滝/洛西の名山愛宕山は今を去る一二〇〇余年前、役小角によって開かれ……」たと記されている。
②【空也滝】…京都市右京区嵯峨清滝。(2002/04、2015/02)
 空也滝の左に、昭和48年3月14日に建立された立派な役行者、前鬼、後鬼の石像が祀られている。
 13年ぶりに訪れた。この日の空也滝は水量も多く、迫力があった。役行者像は、やはり大きく立派な石像である。両手が破損しているが、役行者は右手に錫杖、左手にはおそらく経巻を持った倚像である。強さ、厳しさを前面に出した表情をしていて、人を寄せ付けない印象を受ける。他方、前鬼、後鬼も厳しい表情ではあるが、親しみを感じる立派な石像である。【写真18】
③【行者庵】…京都市右京区嵯峨苅分町25-12。(2017/11)
 京福電鉄・車折神社駅の北。ビルの前にりっぱな不動明王像が祀られていた。
 宗教法人行者庵は/修験道の教えである大自然と神仏習合の信仰をもって、開祖役行者神変大菩薩並びに不動明王、蔵王権現を本尊とし、自己の向上に心がけ、忘己利他の精神を志す在家人による信仰と修行をおこなう仏教団体です。/……
 月刊誌「行者庵」は、/修験道をとおして、日本古来の山岳をはじめとする大自然と神仏習合の信仰を多くの人達にご理解いただくために、志納金でまかなわれ発刊しております。/時に、発行部数の限りにより、不都合をおかけすることがありますが、ご容赦下さい。(『行者庵』2017年6月より)(宇治の朝日山で入手)
【京都市伏見区】
➀【深雪山醍醐寺】…京都市伏見区醍醐東大路町22。(2000/10、2001/11、2007/04)
 真言宗醍醐派総本山。
 醍醐山醍醐寺。当山派修験法頭。
 当山派修験道の本拠地。開祖は聖宝理源大師。874年に創設。醍醐山(笠取山)全域が寺域。
 境内に醍醐山について記した説明板があった。
「醍醐寺の略史」
 醍醐山は弘法大師の法孫である聖宝大師の開創になる。醍醐とは五味のなか最上の滋味といわれ、それは牛乳を精製し酪となし精錬を重ねて出来上がったものをいい、弘法大師は真言の教えをして一切仏経の最勝のものであるとし醍醐をもって喩とされている。
 醍醐寺縁起に聖宝大師は貞観十六年(八七四)、「未だ令法久住の地を得ず、普明寺に於て仏法相応の霊地を祈念す、その祈請に応えて五色の瑞雲、当山の峰に聳え云々」とあり、また「師、雲を望み訪ねて嶺にいたり、白髪の老翁来りて古葉をかき分け水を掬んで、喫して曰く、ああ醍醐味なるかなと、師その化人なるを知りてこの山に伽藍を建て密法を弘めんとす、翁曰く、転法輪の勝地たり、密乗るを弘めて衆生を利せよ、われ山主なり、永く和尚に献ぜん」と忽然として消え、そこに清涼な水が滾々と湧き出ていた、後に石を畳んで他日のしるしとす、更に山に大柏樹ありて三宝鳥その上に鳴く、その柏樹を伐り梵音加持し准胝、如意輪の観世音を刻み堂宇を建立し、翁の言をかりて醍醐寺と名づくとある。(中略)
 上醍醐への道は険しく難所であるが、開山聖宝尊師は宇多天皇の勅を奉じて大峰山修行の道を再興し役行者の芳躅を明らかにした験者であり修験道の中興の祖と仰がれていることは忘れてはならない、現在の上醍醐から石山寺へ抜ける巡礼道も、昔は験者の往来する行者道でもあった。

 (画像)役行者前後鬼・八大童子像(絹本着色、室町時代)(『役行者と修験道の世界』毎日新聞社、1999年、23、208頁)
 不動堂の南西に、役行者の青銅像が祀られていた。【写真19】
 女人堂内左脇に恐らく役行者だと思われる木造が祀られている。
 さらに女人堂の向かいに、役行者の青銅像が祀られている。【写真20】
 不動の滝の左手に、役行者の半肉彫りの石像が祀られている。足下には前鬼、後鬼が彫られている。
 さらに上ると向行者の石像が祀られている。半肉彫りの役行者は半跏像であって、しかも台座に当たる部分に、前鬼後鬼が彫られている。珍しい石像である。【写真21】
 五大堂の前には青銅の役行者(昭和八年九月)が祀られている。【写真22】
②【供水峠西の石仏群】…京都市伏見区日野北山。(2007/04)
 上醍醐南方の上炭山から西に向かうと供水峠に到る。峠から日野に向かって少し下ると石仏群があって、左端に弘法大師を祀った祠があり、その右隣に半肉彫りの役行者の石像が祀られている。あどけなさの残った顔つきをしている。【写真23】
③【北向山不動院】…京都市伏見区竹田浄菩提院町。(2022/04)
 近畿三十六不動尊第二十二番霊場。
 京都市の説明板
北向山不動院/天台宗の単立寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。/大治五年(1130)鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教大師を開山としたのが当寺の起こりである。本堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。そのため、上皇から北向山不動院の名を賜ったといわれる。……/現在の本堂は、正徳二年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。/……

 「役行者大菩薩」の石像が「井戸お滝」に祀られていた。「宝暦十庚申年(1760)六月」に建立されたものか。右手に錫杖をもつ。左手の持ち物はかけていて不明。丸顔で、あどけなさを残した目鼻立ちをしている。【写真24】
【京都市山科区】
➀【楊柳山十禅寺】…京都市山科区四ノ宮泉水町17。(2010/04)
 本山修験宗、聖護院門跡の末寺。
十禅寺は、「楊柳山と号する本山修験宗、聖護院門跡の末寺である。/平安時代の八五九年、仁明天皇の第四の宮、人康親王を開山として創建され、この辺りが『四の宮』と呼ばれる所以となったといわれている。また、『泉水町』という当地の地名は、その頃、ここに大きな泉があったためとも伝えられる。……/境内の東北隅の木の下に、開山人康親王の廟がある……」(京都市の案内板)。
 境内には、大峰山三十三度供養碑が建てられている。
 また「四ノ宮」の北端の地名は、「四ノ宮行者谷」で、行者の修行の地であったという。
②【琵琶琴元祖四宮大明神】…京都市山科区四ノ宮泉水町10。(2010/04)
 十禅寺の前の道を東に向かうと人康親王御墓があり、その先で左の道に入ると、すぐに案内板がある。路地に入ると、奧には、松村輿三郎が大正の初めに再興した琵琶琴元祖四宮大明神の祠がある。その左手には行者堂、大日如来の石仏などがある。
 行者堂には、厚肉彫りの役行者、前鬼、後鬼の石像が祀られている。行者神変大菩薩は、素朴ではあるが、品格のある容貌をしている。普通とは異なって、右手に経巻、左手に錫杖を持つ倚像である。【写真25】
 琴元祖四宮大明神の祠の右手には、人康親王が足で摺った所から水が湧き出たといわれる「御足摺水」があるが、涸れていた。
③【牛王山法厳寺】…京都市山科区音羽南谷1。(2002/11)
 牛尾観音。本山修験宗。
 護摩堂の内、中央の不動明王の右脇に、木彫りの岩窟に木像、丸彫りの役行者が祀られていた。また左脇には前に蔵王権現、その後ろの厨子の内の中央に木像、丸彫りの役行者、前鬼、後鬼が祀られていて、その右に不動明王、左に蔵王権現が祀られていた。
「本山修験宗。山号は牛尾山。音羽山の主峰、牛尾山の中腹に位置し、宝亀9年の創建と伝えられる。本尊は十一面千手観音。脇侍に不動明王、毘沙門天を配する。古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、小野(山科区)の仁海僧正が母の追善供養のために牛皮曼陀羅を描き、その際の牛の尾を当山に埋めたという伝承もある。観音像の下に湧出する霊水は、金生水と呼ばれる。毎年4月と10月の17日に御開帳法会として御本尊が公開され、春は採燈大護摩供、秋は大般若経の転読が執行される。/又、東山区の清水寺は地名の音羽山を山号とし、金生水の清水を次号として東山の地に清水寺が建立されて以来、清水寺の奥の院として今日に至っている」。(京都市産業観光局観光部観光企画課のHP)
【京都市西京区】
➀【法寿山正法寺】…京都市西京区大原野南春日町1102。(2016/11)
 真言宗東寺派別格本山。本尊は聖観世音菩薩。
 西山のお大師さん。石の寺。
 西国薬師霊場第四十一番札所。
 京都大黒大霊場第三番大原野大黒天。
 春日不動尊の堂内に、蔵王権現が祀られていた。
正法寺/真言宗東寺派の寺で、奈良の唐招提寺を創建した鑑真和上の高弟で、天平勝宝六年(七五四)に鑑真和上とともに唐から来朝した智威大徳がこの地で修練を行ったことに始まる。古くは春日禅坊と呼ばれたが、延暦年間(七八二~八〇六)に、伝教大師(最澄)が智威の威光を世に示すため、大原寺という寺を創建した。応仁の戦火で焼失したが、江戸時代初期に、恵雲・徴円の両律師により再興され、「西山のお大師さま」として古くから親しまれてきた。/元禄年間(一六八八~一七〇三)には徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院の帰依を受け、代々徳川家の祈願所となった。/寺宝として、本尊・聖観世音菩薩(弘仁時代)、三面千手観世音菩薩(重要文化財)をはじめ、貞和二年(一三四六)の銘がある地蔵菩薩、鎌倉初期の両界曼荼羅などの仏画、徳川家関係古文書などを蔵する。/境内には、全国各地から集められた名石があり、「石の寺」とも呼ばれている。特に吾、東山連峰を望む借景式山水庭園の「宝生苑」は、庭石が象、獅子、蛙、うさぎ、鳥、亀など動物の形に似ているため、「鳥獣の石庭」として親しまれている。/京都市(京都市の説明板)
②【小塩山勝持寺】…京都市西京区大原野南春日町1194。(2004/11/06、2016/11/04、2020/03)
 天台宗。本尊は薬師如来。
 花の寺。西国薬師四十九ヶ所霊場第四十二番札所。
 阿弥陀堂(本堂)に、「開基神変大菩薩」(役行者)の丸彫りの木像が祀られている。彩色された様子が見られる。通常とは異なり、右手に独鈷、左手に錫杖を持った倚像である。頭巾をかぶり、蓑衣を着て、高下駄を履いている。眼は少し見下ろすような様子で、開口しており、諭しているかのようである。【写真26】
縁起/当山は、京の西山連峯の麓にあって、小塩山大原院勝持寺と呼ぶ古刹であります。白鳳八年(西暦六七九年)天武天皇の勅によって神変大菩薩役の行者が創建したのが始まりで、延暦十年(西暦七九一年)に伝教大師が桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建され、薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻まれて本尊とされました。/承和五年(西暦八三八年)仁明天皇の勅によって塔頭四十九院を建立されましたが、応仁の兵火に遭い、仁王門を除きすべて焼失しました。現在の建物は乱後に再建されたものであります。(勝持寺のパンフレット)
勝持寺(花の寺)/小塩山と号する天台宗の古刹である。/歌僧の西行がこの寺で出家したと伝えられ、西行法師が自ら植えたといわれる八重桜「西行桜」があることから、「花の寺」として親しまれるようになった。/寺伝によれば、白鳳八年(六七九)に役小角が天武天皇の勅により創建し、その後の延暦十年(七九一)に、伝教大師(最澄)が桓武天皇の勅により再建したと伝えられている。当初、大原寺と呼ばれていたが、仁寿年間(八五一~八五四)に、仏陀上人が文徳天皇の帰依を得て伽藍を建立し、寺号を大原院勝持寺と改めたといわれている。/瑠璃光殿には、本尊の薬師如来坐像(重要文化財)のほか、弘安八年(一二八五)に、慶秀らが造立したとの銘がある金剛力士立像(重要文化財)など、貴重な文化財を蔵している。/境内には、多くの桜が植えられ、満開時には、寺が花の中に埋もれているかのように見える。鐘楼の東の西行桜は、現在三代目である。/京都市」(京都市の説明板)
③【西岩倉山金蔵寺】…京都市西京区大原野南春日野町。(2001/10、2016/11)
 元愛宕大権現。天台宗。
 洛西三十三観音霊場二番札所。
 愛宕神社から金蔵寺に愛宕権現(勝軍地蔵)が遷座したという。
 以下は、愛宕大権現御本殿下、鳥居脇の説明板。
勝運の佛/世に愛宕大権現と云ふは今より一千三百年程以前に役の小角が清滝に於て不動明王毘沙門天を始め九万八千の夜叉をひきいて出現されしを霊感により感得せり、之れを其のまま御像に彫刻して愛宕山にお祀りせるものなり/以来火防と勝負の守護佛として信仰篤特に武将の深く信仰する所となり出陣の際には愛宕山に戦勝運を祈願せる例が数多く今日まで伝えられている処が明治三年に至り神佛分離の法令により愛宕大権現は縁故深き当金蔵寺に愛宕山よりお遷りになられました/愛宕大権現の御本願は悪魔を征し火難より守り一切衆生を済度し心に燃ゆる煩悩強盛の業火も広大無辺の誓願により浄く消火され其身は悟りの境地に至り勝運福徳長寿の楽果を得ること夢々疑いなし/御詠歌/前は神うしろは地蔵大菩薩/火防を守る愛宕大権現/……西岩倉山金蔵寺
 以下は、京都市の説明板。
金蔵寺/山号を西岩倉山と号し、天台宗に属する。寺伝によれば、養老二年(七一八)、元正天皇の勅によって隆豊禅師が開創し、聖武天皇は勅額を賜り経典を書写して埋めたといわれ、桓武天皇は平安京遷都に当たり王城鎮護のため経典を埋め西岩倉山と号するに至ったと伝えられる。また隆豊禅師の開創に当たり、向日町にある向日明神の神助があり、明神の手引きで楠木で千手観音を刻んだことが「金蔵寺略縁起」に見えている。平安時代以後、当寺は西山の名刹として栄えたが、応仁の乱へと続く戦乱によって当寺の建物はすべて焼失し、当寺の正確な歴史を伝える古文書、記録も失われた。/現在の建物は、元禄四年(一六九一)、将軍綱吉の母、桂昌院によって再建されたもので、本堂には十一面千手観音像を安置する。本堂背後には、明治初年に愛宕山より本尊、勝軍地蔵像を移して祀っている。このほか、山内には当寺の伝承にまつわる遺跡が多く多く、本堂の北、長嘯亭からは京都市内が一望の下に見下ろされる。/京都市
④【樫原の役行者】…京都府京都市西京区樫原久保町2-1。(2017/05)
 「奉納・行者大菩薩/文化十一戊(1814)五月」と記した石柱と「炎明臺/大正五年(1916)」と記した石燈籠がある。
 祠に祀られている役行者は、江戸時代のものだろうか。役行者の丸彫りの石像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。小顔のつくりをしていて、目つきが鋭く、人を寄せ付けない表情をしている。【写真27】
写真一覧(ページのトップへ)
【写真1】志明院の役行者
【写真2】菩提ノ滝の役行者、前鬼、後鬼
【写真3】神光院の役行者
【写真4】浪切不動の役行者
【写真5】清修院行者堂の役行者
【写真6】西徳寺の役行者、前鬼、後鬼
【写真7】深泥池貴舩神社の役行者
【写真8】三国岳一の岩屋の役行者
【写真9】長谷八幡宮の役行者
【写真10】十王堂の役行者
【写真11】岩上地蔵尊の役行者
【写真12】小野神社の役行者
【写真13】乗願院の役行者、前鬼、後鬼
【写真14】行者の森・神変大菩薩
【写真15】瑞光院の役行者
【写真16】役の行者/水かけの行者さん
【写真17】清水寺(音羽の滝)の役行者
【写真18】空也滝の役行者、前鬼、後鬼
【写真19】醍醐寺不動堂の役行者
【写真20】醍醐寺女人堂の役行者
【写真21】向行者
【写真22】五大堂の役行者
【写真23】供水峠石仏群の役行者
【写真24】北向山不動院の役行者大菩薩
【写真25】四宮大明神行者堂の神変大菩薩
【写真26】勝持寺の役行者
【写真27】樫原の役行者

      【写真1】志明院の役行者

  【写真2】菩提ノ滝の役行者、前鬼、後鬼

      【写真3】神光院の役行者

    【写真4】浪切不動の役行者

     【写真5】清修院行者堂の役行者

   【写真6】西徳寺の役行者、前鬼、後鬼

    【写真7】深泥池貴舩神社の役行者

    【写真8】三国岳一の岩屋の役行者

      【写真9】長谷八幡宮の役行者

      【写真10】十王堂の役行者

      【写真11】岩上地蔵尊の役行者

      【写真12】小野神社の役行者

  【写真13】乗願院の役行者、前鬼、後鬼

     【写真14】行者の森・神変大菩薩

       【写真15】瑞光院の役行者

  【写真16】役の行者/水かけの行者さん

   【写真17】清水寺(音羽の滝)の役行者

  【写真18】空也滝の役行者、前鬼、後鬼

    【写真19】醍醐寺不動堂の役行者

     【写真20】醍醐寺女人堂の役行者

         【写真21】向行者

      【写真22】五大堂の役行者

     【写真23】供水峠石仏群の役行者

  【写真24】北向山不動院の役行者大菩薩

 【写真25】四宮大明神行者堂の神変大菩薩

      【写真26】勝持寺の役行者

       【写真27】樫原の役行者