役行者を巡る【京都市外】(2)

役行者を巡る【京都市外】(2)
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京都府
【福知山市】三岳山
【綾部市】➀弥仙山、②光明寺
【宇治市】➀最勝院不動堂、㉒三室戸寺
【亀岡市】➀行者山、②導養寺、③金光寺、④神応寺
【向日市】➀行者池、②向日神社
【長岡京市】大峰山参拝禊ぎ場
【京田辺市】➀西光寺、②天神社
【京丹後市】➀依遅ヶ尾山、②金剛童子山、③如意寺
【木津川市】➀安養寺、②海住山寺、③行者の背(岩船役行者)、④浄瑠璃寺、⑤神童寺
【乙訓郡】宝積寺
【相楽郡】➀鹿鷺山笠置寺、②鷲峰山金胎寺
【写真一覧】
【福知山市】
【三岳山】…京都府福知山市字上野条と字上佐々木にまたがる。標高は838.9mである。(1999/09)
 三岳山の西麓、三嶽神社から西北の行者神社に小さな祠があり、役行者、前鬼、後鬼の木像が祀られているといわれているが、行者神社まで行けず、確認できなかった。
 また三岳山南麓の三岳山金光寺は、役行者によって、大化元年に開基されたと伝えられている。
 三岳山南麓の登山口にある「本山九合目に鎮座」する「三嶽神社由緒」の石碑には「…古来御獄蔵王権現と称し…大化年中役行者小角の開基と伝え中世長く修験道の道場にして社より上は女人結界地方山岳信仰の中心たりき…明治四年三嶽神社と改め…」られたとある。
【綾部市】
➀【弥仙山】…京都府綾部市於与岐町。(1999/09)
 行基の開山。
 於成神社に蔵王権現堂があり、山頂には金峰神社のお堂がある。東方の君尾山と結んで修験の道があった。
②【君尾山光明寺】…京都府綾部市睦寄町。(2001/12)
 真言宗醍醐派。聖徳太子の開創。
 後に役行者が修行したといわれる。君尾山の麓にある光明寺本堂の左後方に行者堂があって、木造の彩色された役行者と前鬼、後鬼が祀られている。【写真1】
【宇治市】
➀【最勝院不動堂】…宇治市宇治蓮華116。(2006/03~2017/06)
 天台宗寺門派聖護院末。本尊は不動明王。
 平等院塔頭の2ヶ寺、最勝院(天台宗)と浄土院(浄土宗)とが、交代で平等院を管理している。
 平等院ホームページ、最勝院不動堂の説明(2012/05)。
「最勝院」についての説明。
 平等院塔頭2ヶ寺の1つで天台宗寺門派聖護院末です。その歴史は比較的新しく、承応3年(1654)京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧が平等院に移り、その住庵を最勝院と呼んだことに始まります。中世末以来、平等院と疎遠になっていた天台宗が復帰しました。
「不動堂」についての説明。
 不動明王を本尊とする最勝院の本堂。また最勝院が天台修験宗を極める聖護院末であるところから役小角(えんのおづぬ )(役行者)の像が祀られています。隣接する地蔵堂は地蔵菩薩坐像をお祀りしている小堂です。

 本尊・不動明王の左に、役行者が祀られていて、その両脇には立像の前鬼、後鬼が祀られていた。室町時代の木像だという。役行者は右手に錫杖、左手に経巻を持った木造の倚像である。その表情は、上品で若々しく、錫杖を持つ手の指先にも現れている。
㉒【明星山三室戸寺】…京都府宇治市莵道滋賀谷21。(2011/09、2017/06)
 本山修験宗別格本山。千手観世音菩薩。
 西国三十三ヶ所観音霊場第十番札所。関西・神仏霊場会第百二十四番。
 『役行者本記』には、役行者が御室戸(みむろと)寺を開基したと、記しているらしい。役行者に縁のあるものはなかった。
 「……約一二〇〇年前(宝亀元年)、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩淵より出現された千手観世音菩薩を御本尊として創建されました。……」(三室戸寺の拝観案内)
【亀岡市】
➀【行者山】…京都府亀岡市千代川町湯井と薭田野町鹿谷にまたがる。(2003/03)
 千代川から登ると、文化十二年(1815)の銘のある大きな石燈籠「行者燈」があり、その先の石の鳥居を潜ってすぐ先の参道脇に、役行者の石像を祀る石祠がある。浮き彫りであるが、下半身が岩に腰掛けたようになった珍しいもの。光背が岩窟のようになっている。品のある顔立ちをしている。
 さらに行場を登っていくと、不動明王を祀ったお堂があり、そのすぐ上に籠堂がある。籠堂には、役行者と前鬼、後鬼の石像が祀られている。役行者の石像は、参道脇の役行者像と同じように造られているが、光背はない。若さを秘めた壮年の表情をしている。三像とも朱色が塗ってあったようであるが、とくに後鬼の朱色がまだ顕著に残っている。【写真2】
②【導養寺】…京都府亀岡市馬路町流川3。(2015/12)
 川東三十三観音霊場第十一番札所。廃寺。
 北側に亀岡市立川東保育所、その西向かいに梅嶽山長林禅寺がある。導養寺は廃寺となっており、長林禅寺が管理をしているという。
 観音堂の左横の堂内には、パネルのようなものが貼ってあり、中央に蔵王大権現、向かって右に聖不動明王、左に神変大菩薩、前鬼、後鬼の彩色画が描かれている。痩身の役行者は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像であるが、表情などは分からない。
③【法谷山金光寺】…亀岡市千歳町千歳堂ノ下38。(2015/12)
 浄土宗知恩院末寺。 本尊は阿弥陀如来。
 丹波七福神(弁財天)。
 「(前略)他に天満宮の社と行者堂がある。/行者堂には大峰山の岩石役行者、不動明王、地蔵菩薩等の石仏、住吉神社、弁財天等の小さな社を祀っている。/その他の建造物は閑居と土蔵の二棟がある」(案内板)
 行者堂に祀られている丸彫りの役行者の石像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。一見、観音菩薩のような、女性のような顔に見える。役行者像の台座には、「安永五丙申歳(1776年)/二月吉日/役行者/先達玉泉院/講中」との銘があった。また行者堂の右横に「行者」との銘が彫られた瓦が置いてあった。【写真3】
④【瑞雲山神応寺】…亀岡市千歳町毘沙門奥条17。(2015/12)
 曹洞宗。丹波七福神(毘沙門天)。
 「商売繁盛の毘沙門さん」として親しまれている丹波七福神の一つです。花と緑に包まれた石仏庭園では瑞雲33観音めぐりができ、8月には石仏万燈会が行われます」(亀岡市観光協会のHP、神社仏閣の紹介、2015/12)
 一つ屋根の小堂が三つに区切られていて、それぞれに大日如来、不動明王、役行者が祀られている。「役ノ行者」の祠には、役行者が前鬼、後鬼とともに祀られている。彩色された木像で、残念ながら両腕が欠けているが、倚像である。丸顔で、庶民的な様子をしており、笑っているかのように見えるは、珍しい。【写真4】
【向日市】
➀【行者池】…京都府向日市物集女町。(2010/06、2017/05)
 『阪急沿線悠遊一日紀行/洛西口・東向日・西向日』(阪急電鉄)の「物集女城跡」の項に、次のように記されている。
 阪急電車「洛西口駅を降り、中山稲荷線(府道201号)より一筋南側の道を西へ。のどかな田園風景を楽しみながら歩き、南側には物集女城跡のある四つ角を北上し、再び府道に出ます。ゆるやかな坂を登っていくと、左手に行者池、主池と続きます。緑豊かな森に囲まれていて、四季折々の自然の美しさを楽しめ、のどかな気分につつまれます」
 行者池は、第二回生病院前バス停のすぐ西にある。養魚池で、立入禁止になっている。池の西端には、「いろは呑龍トンネル行者池流入口」があって、その傍らに「行者庵、例祭毎月一日」と記された、古い小さなベニヤ板の標識があった。その付近を探してみたが、行者庵は見当たらなかった。
 行者庵は、京福電鉄・車折神社駅の北にもあるが、それを指すのだろうか。分からない。
②【向日神社】…京都府向日市向日北65。(2008/06、2019/06)
 向日神社本殿の右手、後に石窟があって、勝山神変大菩薩と呼ばれている役行者の浮彫の石像が祀られている。役行者の顔は、端整な様子をしている。【写真5】
 石窟の左上には勝山身代不動尊が祀られている。
 役行者の説明板の案内は以下の通りである。
仰々當窟に奉祠する役行者尊像は今を去る百二十五年安永六年五月洛西物集女邑信徒の發願により刻雕せられしものにして爾来同邑の勝地櫻井の上に鎭座ましまし近隣の衆の帰依厚く今日に及んで猶その跡を絶たず然る時偶々向日區友信會総大先達三宅勇蔵氏その寶前に詣で願くば尊像を勝山の麓に遷し奉り益々その威徳を周ねからしめんと欲す氏の願切にして加ふるに友信會員の熱望拒み難く物集女邑の信者も漸くその請を容れ茲に日を卜してこの窟に遷座し尊像を/勝山神変大菩薩と改め奉るものなり されば神変大菩薩の霊験益々あらたかにその功徳は永く末代に伝ふべきなり/維時昭和二十五年八月二十七日/物集女村信者・向日社友信會
【長岡京市】
【大峰山参拝禊ぎ場】…京都府長岡京市今里4丁目地内。(2010/06)
 阪急電車・西向日駅の西約1㎞、更ノ町交差点の西に阪急バス・あかね停留所がある。その南の池越しに赤根天神社がある。
 池の東の道を、赤根天神社に向かって歩いて行くと、左手に「大峰山参拝禊ぎ場」がある。石段の下に、井戸端のような禊ぎ場がある。
 そこには石祠があって、役行者の石像が祀られている。丸彫りで、右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像である。気品のある笑みを浮かべている。大峯山上三十八度供養と刻まれている。【写真6】
 「大峰山参拝禊ぎ場」の案内板の説明は、次の通りである。
 かつて絶え間なく清らかな水が湧き出た当地は、今里地区で大峰山……に参る若衆が、道中安全と修行成就を願って身を清めた所である。昭和四十年頃まで使われ、古来から神聖な地として守られ、女人禁制の地であった。/毎年九月ごろ、成人に達するまでの若衆が先達の引率で大峰山に入り、行場できびしい修行を行った。これは『行者はん』とか『行者講』と言われ、大人に仲間入りする節目の一つで、行かないものは男でないとまで言われた。
 また『長岡京市史民俗編・行者講60ページ~』には以下のように記されている。
 「赤根神社東側の天神池の前にあります。石段を降りると井戸跡が残っています。……なお、井戸脇の祠堂の中には修験道の開祖となる役行者の石像が安置されています。高さ89センチメートルほどの浮彫りの像で、刻銘によると弘化3(1846)年、大峯山に38回も参詣した俗名惣七衛門の建立と刻まれています」
【京田辺市】
➀【西光寺】…京都府京田辺市薪井手41。(2010/12)
 浄土宗。
 境内に入ると、右手に墓地があり、その南東の一角に、大峰登山五拾五度供養塔の石碑(明治38年)が2基と役行者の半肉彫りの石像が祀られている。
 役行者の石像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。風化が進んでいて、表情は読み取りにくい。供養塔の一つの台の部分は、蓮華を模して石が組まれている。西光寺の付近には、薪神社、酬恩庵一休寺があり、また甘南備山(217m)がある。
②【天神社】…京都府京田辺市松井向山1。(2010/07)
 JR松井山手駅から天神社に行き、そこからJR大住駅に至る約6㎞の「いにしえやまのてコース」というハイキングコースが設定されている。
 天神社参道の途中にある、中性院跡の京田辺市の案内板によれば、天神社の神宮寺として中性院があったという。江戸時代には、龍王山観音寺中性院、龍王山中性院といわれ、真言宗に属していたという。明治になって天神社の神宮寺から分離され、明治四年に廃寺になった。
 現在、天神社に不動明王、歓喜天、役行者等の諸像が残されているという。
【京丹後市】
➀【依遅ヶ尾山】…京都府京丹後市丹後町矢畑。(1999/12)
 山頂の石室に、役行者の石像が祀られている。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。風化のせいで、表情は読み取りにくい。
 中腹の鳥居に「役行者大菩薩」「市箇尾大権現」と彫られているという。遠下(おんげ)にある依遅神社は、この頂上にあったものだといわれている。
②【金剛童子行者山】。京都府京丹後市弥栄町味土野。(1999/12)
 役行者の開基。丹後における修験道の中心地であった。山頂の窪地に行者堂があって、引き戸を持ち上げぎみに開けて中に入ると、立派な木像の役行者と前鬼、後鬼が祀られていた。役行者の腕が破損してるが、倚像である。また右横にも、小振りな役行者の石像が祀られていた。左横にはマリヤ像があった。
 説明版には以下のように記されている。
  金剛童子 行者山 略縁起
 この金剛童子霊場の開基は、役小角行者といい、別名小角仙人とも呼ばれた方で(紀元六三四年正月生まれ?)山岳信仰の開祖と仰/がれた。従って、歴史的に見ても非常に古い霊場である。即ち女人禁制の山であった。
 ここの尊像、建立時は(年代不詳)木像だったが、度重なる風雪のため堂宇も、お像も損傷激しく石像を造って、祭っていたそうだ。ところが明治廿二年五月、弥栄町堤(旧吉野村堤)の不動院(真言宗・現庵寺)住職、松田義正氏所持の木像を氏が洞養寺を通じて寄進されたのが、現在のお像である。御名を役行者菩薩と言う。(足立泰章住職代)一説には小角仙人のことを「行者山」と呼び、仙人のお像として祭ったものだとも言われているが定かではない。
 もともと金剛童子は、守護神の一つで、怒髪逆立て、金剛杵をふりあげ、右足を大きくあげ、威嚇のポーズが本来のもので、雨乞い・除病・延命の功徳がありと言われる金剛菩薩のことを言う。
 当時は、味土野はもちろんのこと等楽寺・外村・廣川などの/近隣部落を初め、峰山・岩滝・宮津方面の人達の熱心な信仰を集め、毎年、祭礼が行われていたと、今も伝えられている。
 昭和六十三年秋、堂宇を若干修復し、修復祈祷をし、次年度より、毎年の祭礼を六月八日を中心に復活、多くの御参詣を仰いで今日に至っている。謹白
  平成二年六月吉祥 洞養禅寺
③【宝珠山如意寺】…京都府京丹後市久美浜町1845。(2009/04)
 高野山真言宗。十一面観世音菩薩。
 日切不動尊厄除祈願寺。関西花の寺二十五ヶ所第七番札所。
 如意寺は奈良時代の名僧行基によって開かれた。本尊の十一面観世音菩薩は、行基作と伝えられる秘仏で、眼守護に霊験があるという。
 不動堂に日切大聖不動明王の右壇に薬師如来、左壇に毘沙門天が祀られている。さらに毘沙門天の左に、丸彫りの彩色された役行者、前鬼、後鬼の木像(江戸時代)が祀られている。役行者は右手の錫杖、左手に経巻を持つ様子をした倚像である。【写真7】
【木津川市】
➀【洲見山安養寺】…京都府木津川市市坂久保川56。(2020/03)
 浄土宗。天平八年(736)に行基が開基。法然上人直筆の六字(「南無阿弥陀仏」)の名号と念佛石で知られる。
 バス道から安養寺に向かう道の左の角に、「法然上人/御旧跡/安養寺」の石柱がある。そこにお堂があって、右から「動(ゆるぎ)観音堂」、「役行者堂」、「念仏石堂」(法然上人校量掛合御名号念佛石)がある。
 役行者の石像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、蓑衣をはおり、高下駄を履いている。その表情は、落ち着いた感じで、柔和である。【写真8】
②【補陀洛山海住山寺】…京都府木津川市加茂町例幣海住山20。(2014/01)
 真言宗智山派。
 仏塔古寺十八寺霊場第三番。本尊は十一面観音菩薩。
 『役行者本記』では、671年(天智天皇10年)秋、役行者が開基したという。
 本堂の中、左手に彩色された役行者、前鬼、後鬼の木像が祀られていた。鎌倉時代の元徳二年(1330)、院延の作。役行者は、右手に錫杖、左手に(経巻)を持った倚像で、表情は明るく、優しげである。【写真9】

 海住山寺について(案内の栞)
 『みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ』の百人一首の歌で知られる瓶原(みかのはら)を一望におさめる地に、海住山寺が創建されたのは、恭仁京造宮にさきだつ六年前、天平七年(七三五)のことと伝えられております。大廬舎那仏造立を発願あそばれた聖武天皇が、その工事の平安を祈るため、良弁僧正に勅して一宇を建てさせ、十一面観音菩薩を奉安して、藤尾山観音寺と名づけたのに始まるとのことです。しかし、この寺は、保延三年(一一三七)に灰燼の厄に遭い、寺観のことごとくを失ったのであります。
 その後、七十余年を経た承元二年(一二〇八)十一月、笠置寺におられた解脱上人貞慶が思うところあってこの観音寺の廃址に移り住み、海住山寺と名づけ、旧寺を中興されて、ここに現在の寺基が定められたのでありました。観音様の浄土は南海の洋上にある補陀洛山であります。浄土とは、生ある限りいかなる人も対決しなければならない人間苦・人生苦を解決した真実の楽しみの世界を意味し、この世界に至る道が、いわゆる菩薩道(自他ともに真実の智慧にめざめ、生きとし生けるものをいつくしむ慈悲を行ずる道)にはかなりません。解脱上人は、この山をこうした菩薩道実践の場所とさだめて、観音の浄土にちなんで海住山と名づけられたのでありました。瓶原の平野と、その彼方に連なる山なみは、あたかも南海の洋上に浮かぶ補陀洛山のごとくであり、とりわけうす曇りの日に山上から眺める光景はその感を深くして、いみじくも海住山寺と名づけたものかとさえ思われます。
 解脱上人貞慶(一一五五~一二一三)は、左少弁藤原貞憲の子で、幼くして興福寺に入り、覚憲に師事してひたすら研学につとめ、維摩会・最勝会の講師までも歴任した南都仏教界随一の学僧であり、身をつつしむこときびしく、壮年に至り感ずる所あって笠置山にかくれ、名利をのがれてもっぱら徳をつまれた方でありましたが、晩年その心境がいっそうひらかれるにつれて、人々を教化して仏道にむかわしめるために、この海住山寺に移り住まれたのでありました。上人は、弟子たちに「富勢名誉を望むは自己継承の人にあらず」と常におしえて戒律をおごそかにし、当山の草庵に移られてからも、戒律復興のため、南都興福寺の山内に常喜院を設けて律学の道場とされております。この常喜院からは、後に西大寺の興正菩薩叡尊や唐招提寺の大悲菩薩覚盛などすぐれた高僧が輩出し、めざましい活躍をされています。上人には「唯識論尋思鈔」・「法相宗初心略要」・「法華開示抄」など当時の仏教学の最高水準をゆく幾多の著述がありますが、その深い内省ときびしい求道を物語る書に「愚迷発心集」があって、読む人の衿をたださせます。かの法然上人が浄土宗を開かれたとき、その徒の中には教をあやまり風儀をみだすものがありましたので、これを憂えて「興福寺奏状」を起草したのも上人であったと伝えられております。
 かかる世にたぐい稀な学徳兼備の高僧解脱上人の衣鉢をついだのは、慈心上人覚真(藤原長房、一一七〇~一二四三)でありました。覚真は、後鳥羽上皇の側近でありましたが、当山で出家し先師の遺志をうけていよいよ戒律を厳しくし、また寺観の整備に力をつくしました。現存の五重塔は、建保二年(一二一四)、先師一周忌の供養に際して解脱上人が後鳥羽院から拝領した東寺、唐招提寺の仏舎利を納めるために覚真が完成させたものであり、小さいながらもよくととのい、特に心柱が初層で止められている点は建築史上有名であります。
③【行者の背(岩船役行者)】…京都府木津川市加茂町岩船。(2006/06)
 バス停岩船寺前を岩船寺と反対方向の北に向かう。100mほど進むと、右に古いコンクリート製の防火水槽があり、左に道がある。その左の道に入り、数十メートル進むと、右に上る細い道がある。最初の道は畑で行き止まりになる。次の道を上る雑草で最初は道が分かりにくいが、すぐに明瞭な道になる。
 頂には石祠があって、行者の背(岩船役行者)と呼ばれる役行者の石像が祀られている。頭部は尊仏のものであろう。
④【小田原山浄瑠璃寺】…京都府木津川市加茂町大字西小。(2006/06、2020/03)
 真言律宗。別称、九体寺。
 義明によって永承二年(1047)に創建。行基が天平十一年(739)に開基したとの説もある。

 山門脇の案内板。
  浄瑠璃寺(九体寺)
 京都府の最南端、奈良県との府県境に位置するこの一帯は、平安時代に南都(奈良)仏教の聖地として小田原別所と呼ばれていました。
 室町時代初期に作成された寺の記録『浄瑠璃寺流記』(重要文化財)によりますと、当寺は永承二年(一〇四七)、当麻出身の僧 義明の発願により、薬師如来を本尊とする西小田原の小堂として始まり、その後薬師如来の浄土である浄瑠璃世界から、寺名を浄瑠璃寺と称するようになりました。
 久安六年(一一五〇)には藤原一門の興福寺の僧 恵心が入寺。極楽浄土の宝池になぞらえた苑池を中心として、西岸に東向きの本堂 九体阿弥陀堂(国宝)、東岸に西向きの三重塔(国宝)を配し、現在の寺院建物の配置が整っていきます。本堂には、九体寺という別称の由来となる国宝の九体阿弥陀如来坐像をはじめとする諸像が、三重塔には重要文化財の薬師如来坐像が祀られています。

 毎年6月に「行者まつり」が催されている。第4回行者まつりは2006年6月3日、4日に開催された。潅頂堂には、秘仏・大日如来像(本尊)が祀られているが、見られなかった。また玄奘三蔵法師の拓本が祀られており、その右下には弁財天像が祀られていた。さらにその右に役行者、前鬼、後鬼の役行者三尊の木像が祀られていた。
 役行者は室町時代の作で、前鬼、後鬼は平成十三年に制作されたものである。
⑤【北吉野山神童寺】…京都府木津川市山城町大字神童子。(2006/06)
 真言宗智山派。
 三上山(473.3m)の南西麓に位置する。神童寺の「北吉野山神童寺縁起」には次のように記されている。
 当山は、聖徳太子が始めて開き、自ら千手観世音菩薩の像を彫刻して本尊とし大観世音教寺と号した所で、のち役行者が来て、除災招福のために自ら蔵王権現の像を彫刻して本尊とし、北吉野山神童寺と呼ぶことになりました。
 白鳳四年、役行者が当山に登り行法していると、突然童子があらわれて「汝の傍らに石楠花の樹あり、誠に霊木なり。これにて仏像を刻み衆生を済度せよ。吾らは子守、勝手、金精、佐抛、の四神、常にこの樹を守護す。」と言い終って空に飛び去りました。行者は奇異に思い「三世十方の諸仏願はくは諸の悪魔を降伏して衆生に福を与へ給へ。」と祈ること三七日、満願の暁大地震動して地中から光明を放ち、忿怒の形を具えた蔵王権現が現われ、悪魔降伏、除災招福の相を示現し、虚空遥かにかくれました。役行者は歓喜の涙に咽び、大慈悲の仏恩に奉謝し、すぐ石楠花の木を以て蔵王権現の像を彫刻し始めると、南方から神童が二人現われこれを助けたので像は忽ちなりました。神童は「吾等は天八百日尊、天三下尊なり、永く伽藍を擁護せん。」と云い終わって去ってしまいました。役行者は、そこで別に蔵王堂を建てて権現像を安置し、天八百日尊、天三下尊(当村社の祭神)子守、勝手、金精、佐抛(当村社末社祭神)の六神を勧請して伽藍の守護神とし、また、永く神徳を顕わすため、ここに寺号を改めて神童寺と称することになりました。
 次に、役行者は自らの像を彫刻して、開山堂に置きました。養老六年(七二二)泰澄大師が当山に登り、鷲峯山を北山上、当山を北吉野山と名づけました。

 山門を入って正面に本堂があり、蔵王権現が祀られている。左手の「行者の池」から収蔵庫の向かって上っていくと、地蔵尊の石像があり、鐘楼がある。収蔵庫には、阿弥陀如来を始め、神童寺の諸仏が納められている。一番奥に、室町時代の役行者、前鬼、後鬼の木像が祀られている。洞窟は木に根で造られたものである。役行者は右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像である。
 役行者を助けた二神童は、明治の廃仏毀釈により、近くの天神社に祀られることとなった。
【乙訓郡】
【銭原山宝積寺】…京都府乙訓郡大山崎町字大山崎。(2006/04)
 宝寺。
 観音菩薩を祀った本堂からみて右方、奥に役行者の石像が祀られていた。おとなしそうで、明るい顔つきをしている。
【相楽郡】
➀【鹿鷺山笠置寺】…京都府相楽郡笠置町笠置山29。(2000/09)
 真言宗智山派。本尊は弥勒菩薩。
 笠置寺の行場に千手窟がある。『笠置寺絵縁起』によれば、役行者は683年、笠置山千手窟で修行をしたという。
 また東大阪市東石切町にある千手寺の縁起によれば、役行者が神光に導かれ、生駒を超えて恵日山千手寺を開いたという。
②【鷲峰山金胎寺】…京都府相楽郡和束町原山鷲峯山9。(2000/12)
 真言宗醍醐派。本尊は弥勒菩薩。
 金胎寺の「説明」には以下のように記されている。
 元弘元年八月二十六日後醍醐天皇奈良ヨリ當寺ニ行幸アラセラレシガ地ハ大軍ヲ集ムルニ適セザリシヲ以テ翌日更ニ笠置山ニ向ハセラレタリ/寺ハ白鳳年間役小角ノ開創ニ係ルト傳ヘラレ真言ノ巨刹修験ノ霊場タリ

 平城京の鬼門守護のために建立したともいわれる。本堂、多宝塔、行者堂などがある。行者堂は、江戸時代のもので、厄除役行者尊が祀られているという。拝観できなかった。
 山門を入った左手には、木像の役行者を祀った小祠がある。威厳のある、微動ともしない様子をしている。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である【写真10】。行場の迎え行者は、役行者の丸彫りの石像で、にこやかな顔つきをしている【写真11】。また護摩壇の役行者の石像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。少し厳しい顔つきで、ここから気を入れ直せということのようだ。【写真12】
【写真一覧】(ページのトップへ)
【写真1】光明寺行者堂の役行者
【写真2】行者山・行場の籠堂の役行者
【写真3】金光寺行者堂の役行者
【写真4】神応寺行者堂の役行者
【写真5】向日神社の勝山神変大菩薩
【写真6】大峰山参拝禊ぎ場の役行者
【写真7】如意寺・日切不動堂の役行者
【写真8】安養寺・役行者堂の役行者
【写真9】海住山寺本堂の役行者
【写真10】金胎寺・山門脇小祠の役行者(1)
【写真11】金胎寺・行場の迎え行者(2)
【写真12】金胎寺・護摩壇の役行者(3)

      【写真1】光明寺行者堂の役行者

   【写真2】行者山・行場の籠堂の役行者

     【写真3】金光寺行者堂の役行者

     【写真4】神応寺行者堂の役行者

   【写真5】向日神社の勝山神変大菩薩

    【写真6】大峰山参拝禊ぎ場の役行者

   【写真7】如意寺・日切不動堂の役行者

    【写真8】安養寺・役行者堂の役行者

     【写真9】海住山寺本堂の役行者

  【写真10】金胎寺・山門脇の役行者(1)

  【写真11】金胎寺・行場の迎え行者(2)

  【写真12】金胎寺・護摩壇の役行者(3)